川崎西口で写真店を営む太尾さんは、親子二代で川崎の街と人を見つづけてきた生き字引。都市公団と地域との架け橋役としてミューザ川崎のプロジェクト発足当初から尽力してきた太尾さんに、管理組合の代表としてミューザ誕生に寄せる期待や提言をお聞きしました。
・・・この辺の土地も昔とはずいぶん変わってきているのでしょうね?
私が大森からここへ越してきたのが今から70年以上前の1931年です。当時は街灯もない、寂しい場所でしたよ。まぁ、もともと江戸中期までは田んぼしかない土地だったそうですが、そんな土地が今はこんな立派なランドマークが誕生するまでになった。ほんとうに驚きです。
・・・思い出もいろいろおありでしょうね?
昭和20年には空襲があって、このあたり一面、焼け野原になったんですよ。その後の道路拡張や鉄道計画など、現在に続く街の復興を見守ってきましたが、とくに思い出があるのが、「跨線橋(こせんきょう)」の建設ですね。当時川崎は、西口と東口を往来するのに、駅を通るしか方法がなかったんですが、いちいち入場券を買わないと通れなかった。その頃川崎駅は入場料金だけで月2,300万円も収入があったそうですが、これじゃ地元住民は不便で仕方ない。で、なんとか橋を架けられないか、と地元の人間と議員たちが一緒になって国会に働きかけましてね。やっと22年かかって建設されたんですよ。
・・・太尾さんが感じる「川崎気質」みたいなものはあるのでしょうか?
軍需産業で栄えた川崎ですから、昔からハイテクを支える優秀な頭脳が多く集まる街でもあるんです。あまり知られていませんが、バイオ科学発祥の地としての側面もあり、技術者や大学教授たちなどによって、文化の息吹が伝えられてきたレベルの高い土地柄といえますね。
・・・そんな街にミューザが誕生したことでどんなことを期待されますか?
私はかつて青山で教員をやっていた時期もあったのですが、子供が小さい時から素晴らしい音楽や芸術、文化などに触れさせることがとても大事だと思っています。その意味では、いかに市民が共同の意識をもってミューザを育てていくか、ということが肝心だと思いますね。<MUZA>という新しいランドマークが川崎に現れ、みんなに愛されつづける存在、シンボルになって欲しい、と期待しているんですよ。